1924年、ジェームス・スミスと結婚した彼女はこの頃はクラシックのキャリアを真剣に考えるほどの才能あふれるソプラノ・ソリストでした。
しかしある年のNational Baptist Conventionで、それまでとは違う新しいスタイルで神への賛美を歌う歌手を目にした彼女は考えを改めます。彼女がその時聴いたものこそ、当時まだ未完成であった新しい音楽「ゴスペル」の原型のようなものでした。
1928年、トーマス・A・ドーシーは階下の隣人、そして親友を突然亡くし悲しみのあまりうつ病になりますが、その悲しみの最中に「If You See My Savior」という曲を書き上げます。「もしあなたが私の救い主を見ることがあったら、悲しみのどん底にいる私を見たと伝えて欲しい・・」という曲で、ブルースのスタイルで神への賛美を歌った最初のゴスペル曲でした。
その後、ドーシーは彼の作った新しい讃美歌である「ゴスペル」を売る為に様々な努力をしますが結果は散々なものでした。保守的なシカゴの黒人教会では、ブルース歌手であったドーシーは、とても罪深い存在であり、そんな彼が伝統的な教会の組織に入ること、ましてや彼が望む音楽監督としての指導的立場に迎え入れられることは不可能だと思われました。なのでドーシーはシカゴで開催された1930年のNational Baptist Conventionの時も、それに参加せず家にいました。
このシカゴの大会にスミスは、その頃の地元であったセントルイスから15000人の教会員とともに参加し、朝の礼拝集会でドーシーが書いた「If You See My Savior」を歌いました。それを聴いた会衆は感動し、その後もリクエストに応じて彼女は2度その歌を歌いました。
この時、まだドーシーはスミスの事を知りませんでしたが、この朝の歌唱がきっかけとなり、その後ドーシーはシカゴのピルグリム・バプテスト・チャーチに招かれ、音楽監督として永続的な地位を得ます。ここから彼の「ゴスペルの父」と呼ばれるキャリアがスタートします。そして同時にスミスもこの時からゴスペル・シンガーとしてのキャリアが始まりました。
ドーシーが作ったブルースの構成を持つ楽曲は、幼い頃にブルースのフィーリングを育まれたスミスの自由なアプローチによって命を吹き込まれ、真の「ゴスペル」がここに誕生したのです。
1931年、シカゴでドーシーが最初のゴスペル・クワイアを立ち上げ、その後全米でゴスペル歌手を育成するための組織である「the National Convention of Gospel Choirs and Choruses (NCGCC)」を立ち上げます。そしてスミスはその団体のセントルイス支部を任されます。
彼女は単なる新しい様式としてブルースの歌い方を指導するのではなく、スピリチュアル・メッセージをくり返し呼応することを礼拝の賛美に取り入れるためには、従来の讃美歌のスタイルではなく、歌い手が自由にインプロヴィゼーションにより支配できるゴスペルこそが最適であると指導を行いました。
これによりその後、礼拝にゴスペルを取り入れた黒人教会は牧師による非常にエキサイティングなコール&レスポンスとプリーチング、そして熱狂の中延々と繰り返されるゴスペルという現在の姿を作っていきます。
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