ビービー・ワイナンスやダリル・コーリーなど、ゴスペルの大物アーティストが街にやってくると、カークは音楽ビジネスについて彼らのアドバイスを求めた。(余談だがダリル・コーリーは、薬物中毒でサンフランシスコのベイエリアに帰っていたジョン・P・キーがゴスペル界に入る手助けもしている。)
1991年、彼は「ファミリー」というクワイアを結成した。
彼らは、地元でデモ・テープを録音し、最終的にそのデモをコーリーに渡した。その頃、コーリーと妻のジェネル、そしてヴィッキー・マック・ラタイヤードの3人は、一緒にビジネスをすることを計画していた。
ヴィッキーはGospo Centric Recordsを立ち上げる予定だった。彼女がレーベルを運営し、コーリーはA&Rの責任者、ジェネルはアーティストのマネージメントを担当する。
ベティ・グリフィン・ケラーやA・L・スウィフトなど、レーベルが最初にリリースしたアーティストは、あまりうまくいかなかった。
「ジェネルは、ヴィッキーにカーク・フランクリンのデモを聴くように何度も頼んだ」と、レーベルのアーティスト開発担当副社長だったネリー・ディッカーソンは言う。「そのテープは、ダリルがヴィッキーに渡すのを忘れて、何ヶ月も車の中にあったんです。」一方、カークはダリルに電話をかけ続け、そのテープを誰かに聞かせなかったかと聞いていた。
続けてネリーは言う。「ダリルは才能があると思ったアーティストはどんな形であれ助けるんですが、ただその時は彼はテープを持ってくるのを忘れていました。結局、ジェネルと私がテープを取りに行ったんです。」
「私たちはオフィスに行って、2日間、一日中それを再生しました。一日中聞いて、ヴィッキーは「何度聴いても飽きないわね。私はそれが好きなんだと思う。3万枚くらい売れるかもしれないな』と言った。僕は『いや、10万枚は売れると思う』と言いました。ヴィッキーは笑って、私にそれはクレイジーだと言いました」。
マック・ラタイヤードは、粗雑に作られた録音をきれいにし、欠点がなくなる程度に何度もミックスした後、それをリリースした。
ザ・ファミリーのセルフタイトルのCDは、1993年7月のゴスペルアルバムのセールスチャートで32位を記録した。シングル「The Reason Why We Sing」が数ヶ月間、そこそこの成功を収めた後、この曲は一巡したかに見えた。
しかし、その後に起こったことは、現代のゴスペルの流れを変えることになる。ディッカーソンは、「これはチームワークだった。閃きによる妙案でもなければ、計画的でもない。偶然か必然かはわからないが、何か大きな力がチームワークを生み出し、そして奇跡が起こった」と後に語った。
東海岸のラジオ・プロモーターであるアイク・オーエンズは、ヴァージニアのR&Bラジオ局、WOWIに送ることを思いついた。彼はそれをプログラム・ディレクターのスティーブ・クランブリーに渡したが、彼はそれをとても気に入った。彼は何週間も毎日、一日中この曲を流し続けた。
リスナーの反応もすごかった。スティーブ・クランブリーはシカゴのエルロイ・スミスなどの番組ディレクターの友人たちに電話をかけ始め、彼らがレコードをかけるようになった。
エルロイ・スミスがシカゴのWGCIでこの曲を流し始めると、そこでも同じようなリスナーからの反応があった。当時、WGCIには、シンジケート・ラジオのホスト、トム・ジョイナーがまだいた。彼は、全国放送のラジオ番組を始める前、この局でトップアナウンサーとして活躍していた。カーク・フランクリンとその家族が住んでいたダラスを拠点にしていたジョイナーが、この曲を流し始めると、一気に盛り上がった。
「カークはすでに2枚目のアルバムを録音していて、私たちはそれを出す準備をしていました」とディッカーソンは続ける。「そのアルバムのタイトルは『Whatcha Lookin’ 4』。アートワークも何もかも終わっていて、もうほとんど発売可能な状態になっていたが、この曲がR&Bラジオでヒットしているのを見て、カークは”ちょっと待てよ。あとどれくらい売れるか見てみよう」と言いました。その時点で10万枚売れて、みんな喜びました。それまでにGospoで出した他のアルバムを全部足してもそこまでは売れていなかったんですから」。
結局、この曲は1年後にR&Bシングル・チャートで28位を記録した。
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