ザ・ワイナンスのサポート・ベーシストとして活動後、コミッションド結成!!

フレッド・ハモンドは1960年12月27日、デトロイトに生まれました。幼いころに父親を亡くし、教会で音楽賛美奉仕を担当していた母親のミルドレッドが彼を育てたので、フレッドはまだ小さかったころから教会の音楽に包まれて育ちました。

12歳のときから教会の聖歌隊で歌いはじめ、他のゴスペル・アーティストと同じくフレッドもエドウィン・ホーキンス・シンガーズやアンドレ・クラウチの音楽を聴いていましたが、それだけにとどまらず、スライ&ザ・ファミリーストーン、オハイオ・プレイヤーズ、さらにはブルース・ギタリストのエドガー・ウィンターなど、教会の枠を超えたサウンドも好んで聴いていたようです。

10代の後半、フレッドは母親からベースを買ってもらいました。初めはNorma(初心者モデルだけどかっこいいヴィンテージです)、少しうまくなったらフェンダーのプレシジョン(ブリッとした音の出るベースです。打ち込みでオケを作る時好んで使ってます。)を手にして、ミッチェル・ジョーンズやマイケル・ウィリアムス(後にコミッションドを一緒にやるメンバー)とともに「Saved」というグループを組み演奏していました。彼らはD.J.ロジャースのレーベルHope Songからレコード契約を持ちかけられたが、アルバムが実現する前にレーベルは解散してしまいました。

その後、フレッドはワイナンズのバンドのオーディションを受け、1980年にベースを担当することになりました。約2年、ワイナンズのサポートをしながらプロとしての考え方などを学び、その後デトロイトに戻り「Commissioned」を立ち上げました。メンバーは「Saved」時代のパートナーのミッチェル・ジョーンズ、マイケル・ウィリアムスに加え、ワイナンズのオーディションを一緒に受けたマイケル・ブルックス、キース・ステイトン、カール・リードという6人編成でした。

コミッションドの成功、そして脱退後のソロ活動

コミッションドのサウンドは決して初めから受け入れられたとは言えませんでした。

80年代はR&B、ソウル・ミュージックがそれまでのバンド・サウンドからコンピュータ・ミュージックを取り入れた打ち込み主流のサウンドに変わった大変革期です。しかもその頃のデトロイトのモータウンを中心とした黒人音楽は時代の最先端で、良くも悪くも実験的な音楽が多数生まれていました。コミッションドのサウンドも、機械によるシーケンスをしっかり取り入れたものだったので、人間が汗を流しながら歌い演奏する古き良きスタイルを愛する保守的な多くの教会は彼らのサウンドを始めは支持しませんでした。

しかしそんな中、有力な音楽プロデューサーであり、あのクラーク・シスターズの母でもあったマティ・モス・クラーク博士は彼らのことを認め、メンフィスで毎年開催されるC.O.G.I.C(Church Of God In Christ・・アメリカの有力なホーリネス系教派)のミュージック・コンヴェンションに彼らを招き、重要なスポットでフィーチャーしました。そのおかげで彼らはワイナンスと同じライト・レコードと契約することになります。

デビューアルバム「I’m Going On」が発売されると、彼らは9時から5時までの仕事を辞め、週末のコンサート活動で生計を立てるようになりました。当時は今よりもゴスペル・グループのツアーには危うい誘惑がたくさんありました。神に向かって聖なる歌を歌うアーティストですが、人気が出たグループは世俗のエンターテイメントと何も変わらない「薬物」や「ファンとの不純交友」などで多くのアーティストが身を滅ぼして支持を失っていきました。

デビュー当時を振り返って、フレッドはインタビューで面白いことを言っています。

「初めは誘惑に自分達も流されるかもしれないと思っていたけど、ある時期くらいからメンバー全員が心を引き締めて生活のあらゆる面をクリーンにするようになりました。まるで神が僕たち全員に語りかけたように・・・。」「妻を見つけろ!!そして自分達のキャリアに真剣に向き合うために、落ち着いた生活の中で集中しろ・・・!具体的には誰も人には言われていないのに、この時期にメンバー全員が結婚したんです。」

その後もコミッションドは”Running Back to You”, “Ordinary Just Won’t Do”, “I’m Going On “などのコンテンポラリー・ゴスペルのラジオヒット曲を次々と生み出し、安定した人気を博しました。

(ここのところは詳しく書きたいですが、コミッションド単体でページを作りたいので割愛します。)

1994年、フレッドはグループを抜け、ソロ活動を開始します。

Radical For Christからソロ名義での活動

コミッションド脱退後、彼は Radical for Christ でソロ活動を開始し、1995 年に 3 枚目のソロ アルバム「The Inner Court」をリリースしました。

フレッドは約15年契約を続けたVerity RecordsからFred Hammond & Radical For Christ名義でさらに3枚のアルバムを録音しました。その後彼はFred Hammond名義で「In case you miss it」というタイトルのアルバムをリリースしました。このアルバムには、Commissioned、Radical For Christ、Hits の再録音が含まれていました。

同年、彼は「Christmas…Just Remember」というタイトルのソロ クリスマス アルバムをリリースしました。

2002年にはコミッションドのメンバーとリユニオン・ツアーを開始しました。ツアー中、ハモンドは 6 枚目のソロ アルバム「Speak These Things: Pages Of Life Chapter 3」に取り組んでおり、リユニオン・ツアーのライブ レコーディングにも取り組んでいました。

この辺からのフレッドの活動は自身の作品制作だけにはとどまらず、多くの若手グループやアーティストをプロデュースします。Speak These Thingsのツアーを始めた. ハモンドが別のアルバムをリリースするのは3年後となりますが この間に彼は18年間連れ添った妻のキム・ハモンドと離婚します。

2004年には「Somethin ‘ Bout Love」、2006年に「Free To Worship」、2009年に「Love Unstoppable」をリリース。2010年に彼は新設したアーヴァン・エンターテイメント・カンパニー「Hammond Family Entertainment」の下で、「Life in the Word」をリリースしました。

このレーベルのレコーディング・アーティストの新作に携わったり、彼が始めた「ウェアハウス・ワーシップ」と呼ばれるウェブシリーズのDVDレコーディングをフィーチャーした. 2012年、初のラブソング収録曲「God, Love & Romance」をリリース。

2013 年、フレッドは久々に男性グループ形式に戻り、元ブラック・ストリートで現在はゴスペルのレコーディング アーティストであるデイブ・ ホリスターやブライアン コートニー ウィルソン、エリック ロバーソンと合流して「United Tenors」を結成し、15 枚目のアルバム (Commissioned を除く) をリリースしました。

フレッドは、歴史上最も有名なゴスペル レコーディング アーティストの 1 人です。「アーバン ゴスペルの父」として多くの人に知られ、数え切れないほどの賞にノミネートされ、グラミー賞、多くのStellar賞とDove賞を受賞し、他の歌手、プロデューサー、ミュージシャンのキャリアに現在も大きな影響を与え続けています。

2010 年から彼はテキサスに住み、TD ジェイクス司教が牧師を務める The Potter’s House に通っています。

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