

ゴスペル・ハード・カルテットのレジェンド、「The Blind Boys Of Alabama」の創始者クラレンス・ファウンテンは1929年11月28日、アラバマ州タイラーで生まれた。
1939年、アラバマ州のタラデガ盲学校でクラレンスは同校の男声合唱団に入団していた。
「 コーラスはグリークラブのようなものだった」と、クラレンスはEMIレコードの伝記で語っている。
「先生もほとんど白人で、白人のソングライターが作った曲をたくさん教わった。”オールド・キャンプ・グラウンド “のような有名な曲だったね。でも普段はバーミンガムのWSGNというラジオ局で流れていた黒人のゴスペルを聴いていたんだ。その局では、ゴールデン・ゲート・カルテットやソウル・ スターラーズといったグループのレコードが流れていて、 私たちはそれらが大好きだった。」
そして程なく彼は盲学校の仲間たちと自分たちのグループを結成して、 彼らのように四部構成の合唱(カルテット)で歌い始めた。
しばらくの間、彼らは「ハッピー・ランド・ジュビリー・シンガーズ」と名乗り、全国各地をツアーで回り始めた。しばらくすると、あるプロモーターが、ミシシッピーの「ジャクソン・ ハーモニーズ」(のちのThe Five Blind Boys Of Mississippi)という盲目のグループとのコラボ・イベントを企画した。
両グループともにグループ名があったがこのイベントが成功したことで、グループ名ではなく「The Blind Boys Of Alabama」「The Blind Boys Of Mississippi」という呼称で有名になったため、後に両グループとも改名することになる。
盲学校の学生時代、彼らは軍の施設で歌うこともあり、兵士たちの熱狂的な支持を受け、 ハッピーランド・シンガーズは、その音楽で兵士たちを魅了した。そんな勢いもあり、ハッピー・ランド・シンガーズは、1945年に学校を中退し、プロのレコーディング・ アーティストとして名を馳せることを目指した。
1947年、リードシンガーのヴェルマ・ボーズマン・ ティアラーが拳銃の事故で他界。ポール・エクスカノが後任となり、クラレンスとリード・ ボーカルを分担した。
ハッピー・ランド・ジュビリー・シンガーズは1948年、コールマン・レコードから「See Everybody’s Mother but Mine」でレコードデビュー。この頃スペシャルティ・レコードに録音を開始するまでに、 彼らはファイブ・ブラインド・ボーイズ・オブ・ アラバマに正式に改名した。
彼らの人気を決定付けたのは前述のアラバマvsミシシッピ、ブラインド・ボーイズ対決だった。これはゴスペルのプロモーターにとってもドル箱企画となり、稀代のハード・シャウターによる対決は、 この時代で最も注目されるコンサートとなった。
「毎晩、彼とバトルをしなければならなかった。」「その日の観客は誰が一番好きか?そしてその歓声の大きさでその晩一番いい男が決まるんだ。」とクラレンスは『ゴスペル・トゥルース』誌のシェイマス・マクガーベイに語った。
「ショーが終わると、お互いに通路を降りてきて、何度も握手をしながらお互いを称え合うんだ。それが本当にエキサイティングだった。 アーチーは死ぬほど歌ってくれたよ」。
1957年にスペシャリティとの契約を終えたグループは、その後10年間にVee-Jay、Savoy、 その他様々なレーベルでレコーディングを行った。
1969年、クラレンスはグループを脱退しソロ活動を始めた。しかしソロとして成功しなかったため10年後、彼は再びグループに戻ってきた。クラレンスのいないグループのサウンドもあまりパッとしなかったので、グループ活動は迷走し始めた。クラレンスと言う圧倒的なカリスマ・ヴォーカリストが抜けたことでゴスペルのグループとして求心力が低下し、またカルテットのムーブメントも下火になったため、彼らはそれまでとは違った場所に活路を求めた。ほとんどの試みは惨めな結果に終わったが、諦めずに活動を模索した結果、一つの出演が彼らの運命を大きく変えることになる。
1980年代前半から彼らはソポクレスの『オイディプス』 のゴスペル版ミュージカルの舞台に立った。(ソポクレスのオイディプスは「コロノスのオイディプス」という神との和解をテーマとしたギリシア悲劇)
「The Gospel at Colonus」と改題されたこのミュージカルは、 全米を巡業して絶賛され、1988年にブロードウェイで上演された時には、すでに オビー賞を受賞していた。(オビ―賞とは”Off-Broadway Theater Awards”の略であり、その年にニューヨークで上演された優れた舞台に与えられる賞)。
オビー賞受賞は、ブラインド・ ボーイズに新たなファン層(そのほとんどが白人)をもたらした。
彼らの熱狂的なファンのひとりがロック界の伝説的存在であるピーター・ガブリエルで、ブラインド・ ボーイズはピータ―・ガブリエルのレーベル、「リアル・ワールド」と契約した。
新レーベルでのデビュー作『スピリット・オブ・ザ・センチュリー』では、ミック・ジャガーやトム・ ウェイツ、ベン・ ハーパーなどの楽曲に、ラフでブルージーなボーカルを上手く乗せた。 このアルバムはゴスペルチャートにランクインしたが、 聴衆はブラック・ゴスペル・ファンではなかった。
ブラインド・ボーイズは、「レイト・ショー・ウィズ・デヴィッド・レターマン」など、 通常ゴスペルアーティストを起用しないような有名番組にブッキン グされるようになった。これらの出演とブルース・ フェスティバルのコンサートによって、 彼らは劇場の観客に加えて、ロック・ ミュージックの観客も獲得し、このアルバムで、2001年に彼らは初のグラミー賞を受賞し、その後4年連続受賞という快挙を成し遂げます。
ジョン・ハモンドやデヴィッド・リンドレーが参加した「SPIRIT OF THE CENTURY」(2001)、ロバート・ランドルフ&ザ・ファミリー・バンドをバックに従えた「HIGHER GROUND」(2002)。豪華ゲストを向かえ、ジョン・メデスキーが全面バックアップした「GO TO TELL IT ON THE MOUNTAIN」(2003)。そしてベン・ハーパーとの共演アルバム「THERE WILL BE A LIGHT」(2004)。
その後長きにわたりポップスやロック界とゴスペル界との間を取り持つ掛け橋的な存在として君臨した。(2004年にはなんとフジロックに出演し、ベン・ハーパーと共演!!)
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