1961年5月4日に生まれた彼は、幼少の頃に実の親から育児放棄されたために育ての親のもとで育った。幼いころから音楽の才能に恵まれ、15歳の頃には独学でピアノを弾けるようになった。子供時代を教会で過ごした彼は、トゥインキー・クラークやマーヴィン・ワイナンス、トーマス・ウィットフィールドなどのゴスペルを主に聴いていた。
1985年、名門シンシナティ音楽院でミュージカル・シアターの美術学士号を取得。在学中に友人たちとグループ「カンパニー」を結成。彼らのサウンドは、後にテイク6で知られるようになるコンテンポラリー・アカペラに似ており、スピリチュアルなメッセージとアーバンテイストを融合させたものだった。
1987年、彼は大学の元教授ワース・ガードナー(Worth Gardner)と共にミュージカル「Sing Allelua」を書き、シンシナティ・プレイハウスで上演された。この公演はニューヨークの有名なタレント・スカウト・プロダクションの目にとまり、彼らの手によってニューヨーク公演が実現する。
この公演をきっかけにローレンスは音楽業界で多くの人脈を持つプロモーターのビル・ワシントンと知り合い、R&Bの大物歌手ピーボ・ブライソン主演の喜劇「A Woman Like That」への出演が決定した。
この頃、ローレンスの友人がR&Bのスター、ステファニー・ミルズに彼の曲の入ったテープを手渡した。彼女はそれをとても気に入り、ローレンスに連絡を取り何曲かプロデュースを依頼した。でもローレンスは「自分は教会音楽がやりたいし、アーバンミュージックが出来るかどうか分からない」と1年間彼女からのオファーを断り続けたと1995年のインタビューで語っている。
しかし結局、彼はミルズが1991年に発表したアルバム『Something Real』に2曲を書き下ろした。その後彼女のツアーにも同行し、彼女の音楽のアレンジを書くようになり、最終的には彼女の音楽監督になった。
当時大人気だった女性R & B コーラス・グループのEn Vogueのメンバーがミルズのコンサートを見に行ったとき、その出来栄えに驚き、コンサート終わりの楽屋で「このアレンジを担当した人を紹介してほしい」と関係者に頼み込み、交渉の結果、1993年に行われた「Funky Divas」ツアーでは、ローレンスをボーカルコーチ兼アレンジャーとして起用した。
この事からわかるように、ドナルド・ローレンスはトライ・シティとの関わり以前に、すでにR & B の裏方では引っ張りだこの存在となっていた。
またこのステファニー・ミルズとの仕事で、彼はその後の音楽活動において重要なかかわりを持つ人物と出会っている。ローレンスは、ことあるごとに親しい友人であり制作仲間でもあるケビン・ボンドの名前を出さずに、自分の努力は語れないと主張している。「私が手がけたほとんどのプロジェクトは、ケヴィンの助けを借りて行われました」。「私たちはとても密接に仕事をしていて、ほとんどの仕事は彼なしではやっていけないことなんだ」とローレンスは説明する。
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