偉大なる女性シンガー列伝 其の⑤ Albertina Walker & The Caravans

多くの若者にチャンスを与え、数々の有名ゴスペル・アーティストを生んだ「スター・メイカー」

アルバーティナ・ウォーカーは1929年8月29日にシカゴで生まれ、4歳のときにウェストポイント・バプテスト教会の児童合唱団で歌い始めました。

シカゴのサウスサイドで育った彼女は、マヘリア・ジャクソンの歌に夢中になり、ゴスペルの女王に直接会うことを決意しました。13歳のとき、彼女はシカゴのマヘリアの自宅にアポなしで現れました。

初めは門前払いしていたマヘリアでしたが、純粋な少女の熱意に根負けし、家に招き入れるようになります。アルバーティナの訪問はより頻繁になり、その頃には彼女のほかにもう一人、勝手に門下生になった若者がいました。それがGMWA( Gospel Music Workshop Of America )の創始者であり、のちに「ゴスペル・クワイアの父」と呼ばれたジェームズ・クリーブランドでした。ジェームズは歌いながらピアノを弾きました。マヘリアは彼らのパフォーマンスを丁寧に分析しアドバイスを提供しました。n 

 

伝説のグループ「キャラバンズ」誕生!

アルバーティーナの本格的なプロとしてのキャリアはロバート・アンダーソン・シンガーズに加入した時から始まりました。と言ってもロバート・アンダーソンはアルバーティナが加入したあとグループを引退して解散してしまいます。しかしステート・レコード・カンパニーというレコード会社のスタッフは豊かなコントラルト・ヴォイスを持ったアルバーティナの歌を録音したいと考え、彼女に自分のグループを作るように提案します。

とは言っても急な話だったので、アルバーティナはロバート・アンダーソン・シンガーズの仲間に声をかけ、即席のグループを作りました。レコード会社のアレン氏に、グループ名を聞かれたので考えた結果、メンバーの イライザ(Yancey)はインディアナ州ゲーリー、ネリー(Grace Daniels)はインディアナ州イーストシカゴ、そしてオラ・リー(Hopkins)はシカゴの端っこ、アルバーティナは反対側の端っこから来ていたことから、「ゴスペル・キャラバンズ」と名付けました。(のちに「キャラバンズ」となる)

1952年に結成されたキャラバンズは4月に最初のレコーディング・セッションを行いました。しばらくはアルバーティナを中心としたコーラス・グループでしたが、1953年にベッシー・グリフィンが加入し彼女のソロがフィーチャリングされる形となったころから、グループは看板ソリストを輩出するスタイルへと変わっていきました。1954年にベッシーが脱退した後釜として加入したカシエッタ・ジョージも卓越したリード・シンガーでした。

アルバーティナに見いだされ、キャラバンズで仕上がった二人の天才歌手。ドロシー・ノーウッドとシャーリー・シーザー。

1956年までに、カシエッタ・ジョージはグループを去りましたが、アルバーティーナは、キャラバンズに並外れた新しい歌手を連れてくることによって、ボーカルの才能を見つける彼女の間違いのない能力を示し続けました。

ドロシー・ノーウッドは8歳で彼女の家族で構成された「Nowood Gospel Singers」のメンバーとしてキャリアをスタートさせます。その後。ゴスペルの盛んなシカゴに移り住もうと、モリス・ブラウン大学に入学する準備をしていましたが、シカゴの最初の夜に教会で歌うマヘリア・ジャクソンの歌声を聴き、そのまま彼女に弟子入りします。(アルバーティナにしてもジェームス・クリーブランドにしても、ドロシーにしてもですが、突然押しかけて弟子入りしてしまうってすごいですね。またそれを断らずに受け入れて家に招き入れて手料理まで振る舞うマヘリアはもっとすごいですけど・・・)

そしてマヘリアを通じてドロシーとアルバーティナは知り合い、1960年ころから1964年までキャラバンズの看板シンガーとして活躍します。その後、彼女はソロとしてのキャリアをスタートさせますが、その活躍は説明するまでもなく、9つのグラミー・ノミネート、70年代のローリング・ストーンズやスティーヴィー・ワンダーのツアーへの参加など、ゴスペルだけにはとどまらない幅広い活動を行っています。

しかし本当のキャラバンズの絶頂期は、かつて「神童」または「神に選ばれ油を注がれた歌手」と呼ばれた天才ゴスペル・シンガー、シャーリー・シーザーの加入により始まったと言えます。

シャーリーは地元の教会で幼少期に「神童」と呼ばれていましたが、その後ノースカロライナ大学(現在のノースカロライナ中央大学)に入学し経営学を専攻します。学生生活を送るシャーリーはある日、キャラバンズのコンサートに参加しその歌声に魅了され、自分もこのグループに参加したいと考えます。知人であるドロシー・ラブ・コーツ(この人も超有名。のちに特集すると思います。)の仲介でシャーリーは、すでにゴスペル界のスターであったキャラバンズにソプラノで参加します。

シャーリーの歌唱法は「プリーチング(説教)スタイル」と言われています。私たちがブラック・ゴスペルを通じて当たり前のように親しむこの怒鳴っているように聞こえる激しい説教のスタイルは実はアフロ・アメリカンの民族的スタイルで、全世界的に見ればとても特徴的なものです。

前にこのブログで紹介したゴスペルの母「マザー・ウィリー・メイ」が、牧師の説教の時に会衆との間に生まれる「コール&レスポンス」に見立てて、リード・シンガーとクワイアの間に音楽的に「呼応」を生み出すスタイルを作りました。その後そのスタイルはエドナ・ガルモン・クックや、シスター・ロゼッタ・サープなどの手により発展し、シャーリー・シーザーの類まれなアーティキュレーションによって完成したと僕は勝手に思っています。(実際にシャーリーが歌いだすと、聴衆はみな立ち上がって大きな声で叫びだすというのが、キャラバンズのコンサートの目玉となっていきます。)

このようにシャーリーの加入によって、そのキャリアの頂点に達したキャラバンズは、ゴスペル界における女性コーラスというスタイルの地位を向上させ、バレット・シスターズなどの後進に多大な影響を与えましたが、1966年にソロ・キャリアをスタートさせるためにシャーリーが脱退。その後、ロリータ・ハラウェイというリード・シンガーが加入しますが、絶頂期の勢いは取り戻せず、ついに1969年にアルバーティナはキャラバンズの解散を決意します。(ちなみに最後のリード・シンガーのロリータは70年代・80年代にディスコ・クイーンとして「Love Sensation」などの大ヒット曲を出します。)

余談ですが、キャラバンズ結成当初、ジェームス・クリーブランドはピアニストとして参加していました。しかしアルバーティナは彼のカリスマ性にいち早く気づきます。レコード会社からキャラバンズのニュー・アルバムの録音の話が来た時に、彼女はジェームスがリードを取る曲を録らせてほしいと担当者に話したところ、担当は「あんなカエルみたいな声はいらない」と断られてしまいます。しかしツアーなどではジェームスの歌は聴衆の心を掴むということを何度も説明し、最後には「ジェームスの曲が入らないのであれば、アルバムの録音はしない!」と言い放ち、担当は渋々受け入れることになります。

後にジェームス・クリーブランド牧師は激しい説教による喉の酷使のため、いま知られているようなガラガラ声になりますが、彼はシンガーとしてもディレクターとしても大成し、それどころかG.M.W.Aを立ち上げ「マス・クワイア・ゴスペルの父」と呼ばれるようになります。

アルバーティナの「人の才能を発見する力」は恐るべきもので、彼女がいなくては世に出てこなかった歌手もいたでしょう。彼女が「スター・メイカー」と呼ばれる所以です。

偉大なる女性シンガー列伝其の④ Mahalia Jackson

多くの人に勇気と希望を届けた世界的ゴスペル歌手

Mahalia Jackson ( 1911-1972)は、ゴスペルシンガーだけでなく、テレビパーソナリティ、公民権活動家としても多くの功績を残しました。

彼女は「Queen Of Gospel (ゴスペルの女王)」と呼ばれ、ゴスペルミュージックの史上最高の歌手の一人として、ブルース・フィーリングあふれる豊かな表現力と力強い声で世界中の多くの歌手に影響を与えました。

彼女がこのようにゴスペルの第一人者として君臨することになった要因として、彼女の歌が力強い躍動感と尊厳および強い宗教的信念を組み合わせたものであったことは当然ですが、全世界にレコードやテレビジョンが普及し始めた時代であったことで、それまでの時代には考えられなかった知名度を得ることができたのではないかと思います。

幼年期~トーマス・A・ドーシーとの出会い

マヘリア・ジャクソンはルイジアナ州ニューオリンズで生まれました。幼少のころから日常生活の中で当たり前のように讃美歌を歌いましたが、土地柄もあって自然とベッシー・スミスやマ・レイニーなどのブルースアーティストの世俗的な音に影響を受けていました。彼女は家族を支援するために中学2年生で学校を中退しました。看護を学ぶ目的で10代の頃シカゴに移った後、彼女はグレーター・セーラム・バプテスト教会の聖歌隊と、ジョンソン・ゴスペル・シンガーズでプロとして歌い始めました。

彼女が「ゴスペル音楽の父」として知られる作曲家トーマスA.ドーシーと出会ったのは、1929年。その後1930年代半ばに教会のプログラムやバプティスト全国大会などでドーシーの歌を歌いながら、14年間ドーシーのゴスペルを普及させるためのゴスペル協会活動に携わりました。

ゴスペル・アーティストとしての成功

1946年にマヘリア・ジャクソン名義の曲「Move On Up a Littler Higher」を録音し、10万部を売り上げ、最終的に100万部を超えました。1947年までに、彼女は全国バプテスト大会の公式ソリストになりました。

マヘリアのその他のミリオンセラーとしては”In the Upper Room” (1952), “Didn’t It Rain” (1958), “Even Me”  “Silent Night” などが有名です。彼女はキャリアの間に約30枚のアルバム(主にコロムビアレコード)を録音しました。彼女はまた、映画「Imitation of Life」、「St。LouisBlues」、「The Best Man and I RememberChicago」にも出演しました。

1950年代半ばまでに、彼女はシカゴでラジオやテレビ番組を放送し、全国的な番組(エド・サリバン・ショーなど)にも頻繁に出演しました。この間、彼女はシカゴにフラワーショップを所有し、コンサート・アーティストとしてツアーを行い、コンサートホールに頻繁に出演し、教会にはあまり出演しませんでした。

1950年に彼女はニューヨークのカーネギー・ホールで演奏した最初のゴスペル歌手になり、1958年にニューポート・ジャズ・フェスティバルでも同じく最初のゴスペル・アーティストとして出演を果たしました。この時代のニューポート・ジャズ・フェスはまさに時代の中心となるものであり、そこに出演するということは全米から認められたアーティストという称号を得たようなものでした。(逆に言えばマハリアが世俗的、もしくは商業的なゴスペル歌手というレッテルで見られているのも、このような驚異的な成功を収めたことが大きな要因かもしれません。)

マヘリア・ジャクソンと公民権運動

マヘリアを語るうえで外せないのが、やはり50~60年代における公民権運動との関わりではないでしょうか?

1956年、マーチン・ルーサー・キング牧師をはじめとする公民権運動の指導者たちはマヘリアに、集会、行進、デモに彼女の強力な声と財政的支援の両方を貸すように求めました。キング牧師の右腕であり、今もなおブラック・コミュニティにおいて大きな影響力を持つ指導者ジェシー・ジャクソン師の回顧録では「マヘリアは60年代の公民権運動において最も重要な支援者であり、キング牧師の講演の多くに同行しその力強い歌声は聴く人の心を支え、勇気づけた。彼女はキング牧師に頼まれたら、人種差別の特に厳しかった深南部の地域でさえもためらうことなく同行した。」と書かれています。

とくに有名な話としては、1963年8月23日に20万人が集まったワシントン大行進の際に、キング牧師はいつもの公民権運動用の演説を用意していましたが、直前にマヘリアが「前に地方の講演会でしたあの” 夢の話 ” をみんなに聞かせてあげて欲しい」といい、急遽変更され語られたのが、アメリカの教科書にももっとも説得力のある最高のディベートとして紹介されている「I Have A Dream」だったと言われています。キング牧師の葬儀では、彼が最も愛したゴスペル曲「Precious Lord, Take My Hand」を歌いました。「We Shall Over Come」をはじめとするこの当時の彼女の歌は、まさにFreedom Song として歴史に残っています。

マヘリア・ジャクソンが歌うゴスペルは、神様が私たちに与えてくれる「希望」と「光」

マヘリアは幼いころに母を亡くし、幼少時代は食べるものもろくに食べられないほどの極貧生活を送りました。

歌の世界で成功し、世界的な知名度を得た後でさえも日常的な人種差別は根強く、シカゴの白人居住区に建てた自宅には銃弾が撃ち込まれるなど、彼女の人生の多くの時間は差別や苦難との戦いでした。

でもマヘリアは決してつらさや悲しみをブルースに乗せて歌うことはしませんでした。有名になってからジャズの王様デューク・エリントンにレコーディングとツアーを誘われたときにも、彼女は「私が口にするのは、神の音楽だけ」と断ったそうです。彼女は「希望」と「光」を歌う歌手でした。

私の知り合いのクリスチャン・ゴスペル・シンガーの方が「マヘリアのゴスペルはどうも商売っ気が強すぎて、私は好きになれない。だって彼女のゴスペルは礼拝の賛美を目的にしたものではないから・・」と言われたのを思い出します。

まあその人の好みだし、その人にとっての「ゴスペルはこうあるべき」という一つの意見だと思いますが、社会的最弱者であった黒人奴隷の生命や権利、そして心を支えるために歌われた黒人霊歌の役割と、マヘリアが積極的に参加した公民権運動で弱者を支え鼓舞するために歌われた「We Shall Not Be Moved(古い黒人霊歌” I Shall Not Be Moved “の主語が変わったもの)」や「How I got Over」「Precious Lord, Take My Hand」などのゴスペル・ソングが多くの人の心を支え、勇気を与えたという意味では役割は同じだと僕は思います。

こう書いてからいうのもおかしいですけど、ゴスペルに「こうあるべき」なんて役割つけるのはなんか馬鹿げています。教会の外であれ、中であれ、どのような時でも、どのような人にとっても、求められた時にすでに与えられているものこそが「ゴスペル(福音)」です。神様の恵みなんて、大抵は後で思い出したように気付くものであって、僕らがその目的や役割を決めて歌うものではないんじゃないかと思っています。 Be

偉大なる女性シンガー列伝其の③ Margaret Alison

マーガレットウェルズ「ベイブ」アリソンは、1921年9月25日、サウスカロライナ州プラムブランチに生まれ、4歳のときに両親と一緒にペンシルベニア州フィラデルフィアに移住しました。

アリソンはヴァレリー・スタークスという地元の歌手兼ピアニストをとても尊敬していたので、彼女はピアノを始めることにしました。

1941年、彼女はスピリチュアルエコーズと呼ばれるフィラデルフィアの女性ゴスペルグループに同行し始めました。

1944年のある夜、アリソンは牧師が彼女に自分のグループを作るように言う夢を見ました。それは普段見る夢よりも非常に強い説得力を持った特別なもののように思えました。彼女は考え抜いた挙句、彼女の夫からの励ましもあり、Angelic Gospel Singersを結成します。

スピリチュアルエコーズのエラ・メイ・ノリスとルシール・シャードは彼女の決心を祝福しただけではなく、彼女のグループに加わることに同意しました。アリソンは彼女の妹、ジョセフィン・ウェルズ・マクダウェルを4人目のメンバーとして導き入れました。アンジェリックスはゴスペルソングに明るく説得力のあるハーモニーを与え、多くの人を魅了しました。

1949年、フィラデルフィアの一人のゴスペル・プロモーターがアンジェリックスを聴き、ゴッサム・レコードの社長であるアイビン・バレンに紹介しました。

バレンはグループに、これまでのゴスペルアーティストが録音したことのない新しい何かを歌うようにリクエストしました。

アリソンは、ある女性シンガーがLucie CampbellのTouch Me Lord, Jesus歌っているのを思い出しましたが、より現代的なサウンドで新しいアレンジを考案しました。

バレンはアリソンのバージョンを非常に気に入り、曲をリリースし、一夜にして成功を収めました。発売時点で推定10万枚を売り上げる大ヒットとなりました。

Angelic Gospel Singersは、全国を旅しながら、ゴスペル・サーキットのトップ・アトラクションになりましたが、当時の他のトップ・ゴスペル・グループと同じく、過酷なツアーは彼女たちに大きな試練を与えました。

「神への信仰が私を導いてくれました」と後にアリソンはこの時のことを回想しています。「聴衆の前に行く前に、私はグループと一緒に祈りました。私の祈りは、主に私たちを祝福し、聴衆を祝福し、誰かに触れる何かを歌うのを手伝ってくれるように頼むことでした。」

グループはTouchMe Lord Jesusに続き、There Must Be a Heaven Somewhere、Back to the Dust、クリスマスの定番となったAllisonが書いた曲、Glory,Glory to the Newborn Kingなど連続でヒット曲を出しました。

ディキシー・ハミングバードとアンジェリックスが一緒にツアーをしたとき、彼らはしばしば一緒に歌を演奏しました。

1950年と1951年に、アリソンとディキシー・ハミングバーズのアイラ・タッカーがリードボーカルを入れ替わり、Dear Lord、Look Down upon MeStanding Out On theHighwayなどのクラシック・ゴスペル・ナンバーを録音しました。

ルシールとエラ・メイは、それぞれ結婚した後、アンジェリックスを引退しました。アリソンと彼女の妹はグループを続け、新たにトーマス・モブリーとバーニス・コールを新メンバーとして迎えました。

再構成されたグループは、1955年から1983年にMalaco Recordsと契約し、Touch Me Lord Jesus、Don’t Stop Praying、Out of the Depths、I’ve Weathered the Storm、I’ve Got Victoryを含む一連のアルバムを録音しました。後者は、ゴスペル音楽におけるアンジェリックスの長寿。1987年のMalacoシングルI’ve Got Victoryは、Angelic GospelSingersをゴスペル・ラジオ・ローテーションに返り咲かせました。

2000年、うっ血性心不全で入院した後、アリソンは歌い続けましたが、それ以降彼女は大規模なツアーを減らしました。

マーガレット・アリソンがマラコで最後に録音したプロジェクト、タッチ・ミー・アゲインは、2008年にリリースされました。

このアルバムのリリースの直後、彼女はフィラデルフィアで86年の生涯を終え、主と共に天国へと旅立ちました。

偉大なる女性シンガー列伝 其の②Clara Ward & The Ward Singers

類まれなる才能に恵まれながらも、幸せとは言えない短い人生を送ったゴスペル・アーティスト。

ゴスペル史上最高のソリストの一人であり、アレサ・フランクリンに最も大きな影響を与えたシンガー

1924年8月21日にフィラデルフィアで生まれたクララ・ウォードは、ゴスペル史上最高のソリストの1人として広く評価されています。

彼女のバックグループであるウォード・シンガーズと一緒に全米をツアーし、その活動の結果、ゴスペルと言う音楽は教会の礼拝の中で賛美として歌われるだけでなく、エンターテイメント性の高いショー・パフォーマンスとしての一面を確立しました。派手な衣装とポップスタイルのパフォーマンスが、これまでになかった新しい可能性と商業的成功をゴスペルにもたらせました。(結果としてこのことは賛否両論があり、グループと彼女の寿命を縮める要因ともなりました。)

ビジネス面を担当した母親のガートルードは、幼いころから娘クララの歌唱力と妹ウィラのピアノに非凡な才能を見出し、1940年代後半には強力なビジネス・マネージメント力で、このグループを教会サーキットのトップアトラクションの1つに育て上げました。

のちにグループは2人の新しいパフォーマー、ヘンリエッタ・ワディとマリオン・ウィリアムズを迎え入れます。彼女らの力強い声はグループのトレードマークとなりました。マリオンがソリストとして加入したことで、ウォード・シンガーズはグループとしてのピークを迎えました。(1949年に発表された「Surely God Is Able」はゴスペル曲として初のミリオン・セラーとなりました。)

教会サーキットから、ナイトクラブ・サーキットへ。

1940年代のゴスペル・グループが有名になっていく流れとして、① 自分達の属する教会の礼拝プログラムに組み込まれる→② 地域の他の教会にもゲストとして呼ばれるようになる→③州も越え、全米の教会から目玉として呼ばれるようになる(トップ・アトラクション)というのが普通でしたが、ウォード・シンガーズは派手な衣装とそれまでにはなかったステージ構成で、黒人クリスチャン・コミュニティにはとどまらず、白人の富裕層までファン層を拡大しました。

実際、活動範囲を広げたことで、それまで彼女たちを後押ししていた人たちを置き去りにしてしまう形になったようです。「Packin’ Up」という曲は、舞台に大きなスーツケースを模したセットを作り、聴衆には大人気でしたが、一部の純粋なゴスペル・ファンからは「ピエロ」と揶揄されました。その後も活動範囲は広がり、ラスベガスでのショーやディズニー・ランドにも出演しました。

CL・フランクリン、アレサ・フランクリンとの出会い

クララ・ウォードの人生は、キャリアの成功だけを見れば華やかそのものですが、決して彼女にとって幸せとは言い難いものでした。

幼い頃は経済的な事情から彼女の家族は19回も引っ越しをしました。彼女の自伝によれば幼少期にいとこから性的虐待を受け、生涯を通じて母親はクララを「最高の稼ぎ頭」として絶え間なく働かせました。

妹のウィラによれば、母親は彼女たちの恋愛を禁止し、過酷なツアー・スケジュールを課しました。17歳でクララは一度、彼氏と駆け落ちして結婚しますが、それを良く思わなかった母親がートルードは長期にわたるツアーを強要し、元々体がそんなに強くなかったクララは極度の緊張から流産します。そして結婚生活も一年で終わってしまいます。

そんな彼女にとってとても幸せな時間だったのは、デトロイトを拠点とする有名な説教師であり、あのアレサ・フランクリンの父親でもあるC.L フランクリンとの長年のロマンスだったのではないでしょうか?

ウォード・シンガーズは、C.L フランクリンと大規模なツアーを多く行い、クララは長い時間をフランクリンの家で過ごしました。そしてこの時期にマヘリア・ジャクソン(彼女もフランクリンの家族の友人だった)とともに、アレサ・フランクリンを指導します。

後にソウルの女王となったアレサのあのパーフェクトな鼻腔共鳴を作ったのはまさにクララ・ウォードだと思います。(上の動画でもC.L フランクリンの横にクララが座って嬉しそうに弟子のアレサを見つめています)

うつ病・アルコール依存、そして死

1960年代になっても、クララ・ウォードは母親の商品としてツアーを続けます。

歌唱力は若い頃のようなパワーはなくなりますが上手さ(巧さ?)が増し、音楽としてのクオリティは健在でしたが、あまりにショーとして構築され過ぎたパフォーマンスは、ゴスペルの伝統を重んじる多くの信者を失望させました。

彼女の中にもその葛藤があったようで、少しずつ彼女の心は力を失ってしまいうつ病からアルコール依存症になります。

そして1966年5月にフロリダ州マイアミビーチのキャスタウェイズラウンジで演奏中に彼女は倒れます。その後2度脳卒中を起こし、1976年1月16日に48歳でこの世を去りました。

偉大なる女性シンガー列伝 其の①Willie Mae Ford Smith

ゴスペル草創期にブルースの手法を取り入れた歌唱法で数多くのゴスペル歌手を指導し、「マザー」と呼ばれ敬愛された伝説のエヴァンジェリスト

ウィリー・メイ・フォード・スミス(1904年6月23日– 1994年2月2日)は、ゴスペル音楽が誕生した草創期に最も貢献した先駆者のひとりです。

彼女はニューヨークタイムズ誌から「今世紀もっとも重要なゴスペル歌手の一人」と名付けられ、1988年には「The National Heritage Fellowship(アメリカの民族伝統芸能の芸術家に送られる最高の栄誉)を授与されています。

「ゴスペルの父」と呼ばれるトーマス・ドーシーが1000を超えるゴスペル曲を書き、ゴスペル・クワイアの活動基準を明確にし、また初めて黒人が自身の著作権を管理するという功績を残したのに対し、マザー・スミスはゴスペルの最大の特徴となったブルース・フィーリング溢れる自由なアドリブを、よりスピリチュアリティ(霊的感性)を反映させた宗教的根拠の強いパフォーマンスに昇華させました。

幼少期、家の裏庭で聴いたブルースに育まれた即興的感性

彼女はミシシッピ州ローリングフォークで生まれましたが、両親の仕事の都合ですぐにテネシー州メンフィスに移り住みます。

まだ幼児だったころ、ウィリー・メイは家の裏にあった評判の悪いクラブハウスから聴こえてくるブルースを聴いて育ちました。少し大きくなると有名なブルース曲「Boll Weevil」を常連客の前で歌いお小遣いをもらっていました。

両親は敬虔なクリスチャンで、父親は教会の執事であったため、歌を歌う彼女へ大きな愛情を注ぎ、地元教会で歌う機会を与えました。しかし20世紀初頭の黒人教会の合唱団による讃美歌唱はとても形式的で、モーツアルトやヘンデルなどの楽曲の威厳を保つことがもっとも重要視されていました。(宗教歌の威厳こそが神への畏敬と考えられていた)

ですのでウィリー・メイが幼少期から聴いていたブルースのようなリズム、歌詞、メロディを即興でパーソナライズさせるような手法は「楽曲の威厳を損なうもの」として決して容認されませんでした。

「ゴスペルの父」と「マザー」!神の導きによるトーマス・A・ドーシーとの運命的な出会い。

1924年、ジェームス・スミスと結婚した彼女はこの頃はクラシックのキャリアを真剣に考えるほどの才能あふれるソプラノ・ソリストでした。

しかしある年のNational Baptist Conventionで、それまでとは違う新しいスタイルで神への賛美を歌う歌手を目にした彼女は考えを改めます。彼女がその時聴いたものこそ、当時まだ未完成であった新しい音楽「ゴスペル」の原型のようなものでした。

1928年、トーマス・A・ドーシーは階下の隣人、そして親友を突然亡くし悲しみのあまりうつ病になりますが、その悲しみの最中に「If You See My Savior」という曲を書き上げます。「もしあなたが私の救い主を見ることがあったら、悲しみのどん底にいる私を見たと伝えて欲しい・・」という曲で、ブルースのスタイルで神への賛美を歌った最初のゴスペル曲でした。

その後、ドーシーは彼の作った新しい讃美歌である「ゴスペル」を売る為に様々な努力をしますが結果は散々なものでした。保守的なシカゴの黒人教会では、ブルース歌手であったドーシーは、とても罪深い存在であり、そんな彼が伝統的な教会の組織に入ること、ましてや彼が望む音楽監督としての指導的立場に迎え入れられることは不可能だと思われました。なのでドーシーはシカゴで開催された1930年のNational Baptist Conventionの時も、それに参加せず家にいました。

このシカゴの大会にスミスは、その頃の地元であったセントルイスから15000人の教会員とともに参加し、朝の礼拝集会でドーシーが書いた「If You See My Savior」を歌いました。それを聴いた会衆は感動し、その後もリクエストに応じて彼女は2度その歌を歌いました。

この時、まだドーシーはスミスの事を知りませんでしたが、この朝の歌唱がきっかけとなり、その後ドーシーはシカゴのピルグリム・バプテスト・チャーチに招かれ、音楽監督として永続的な地位を得ます。ここから彼の「ゴスペルの父」と呼ばれるキャリアがスタートします。そして同時にスミスもこの時からゴスペル・シンガーとしてのキャリアが始まりました。

ドーシーが作ったブルースの構成を持つ楽曲は、幼い頃にブルースのフィーリングを育まれたスミスの自由なアプローチによって命を吹き込まれ、真の「ゴスペル」がここに誕生したのです。

1931年、シカゴでドーシーが最初のゴスペル・クワイアを立ち上げ、その後全米でゴスペル歌手を育成するための組織である「the National Convention of Gospel Choirs and Choruses (NCGCC)」を立ち上げます。そしてスミスはその団体のセントルイス支部を任されます。

彼女は単なる新しい様式としてブルースの歌い方を指導するのではなく、スピリチュアル・メッセージをくり返し呼応することを礼拝の賛美に取り入れるためには、従来の讃美歌のスタイルではなく、歌い手が自由にインプロヴィゼーションにより支配できるゴスペルこそが最適であると指導を行いました。

これによりその後、礼拝にゴスペルを取り入れた黒人教会は牧師による非常にエキサイティングなコール&レスポンスとプリーチング、そして熱狂の中延々と繰り返されるゴスペルという現在の姿を作っていきます。

生涯貫き通した商業的公演活動の拒否

スミスは指導者として数多くのゴスペル・シンガーを世に送り出し、その多くは商業的にも成功し、レコーディング・キャリアを充実させ世界中にその名を知られています。

しかし彼女自身は、ドーシーに「ベッシー・スミスやマヘリア・ジャクソンにも引けを取らない、もしくはそれ以上の才能の持ち主」と言わしめたにも関わらず、後年まで商業的な知名度は皆無と言ってよいほどでした。

彼女は生涯を通じて、ゴスペルを歌う事は礼拝における.奉仕とし、報酬を目的とする公演活動や録音活動をほとんどしませんでした。

1982年に公開され、世界中から大絶賛されたドキュメンタリー映画「Say Amen, Somebody」(邦題:マザー)はスミスとドーシーを題材にしたもので、この公開により彼女はそれまで知られていなかった層にも認知されるようになりました。(豊中スタジオでVHS:字幕なしで鑑賞できます。)